昭和五十五年十月二十二日
御理解第四十五節
「世に三宝様踏むな三宝様踏むと眼が盲れると云ふが三宝様は実る程かがむ人間は身代が出来たり先生と云はれるやうになると頭を下げる事を忘れる神信心をして身に徳がつく程屈んで通れ兎角出る釘は打たれるよく頭を打つと云ふが天で頭を打つのが一番恐ろしい天は高いから頭を打つ事はあるまいと思ほうけれども大声で叱ったり手を振り上げたりする事はないが油断すな慢心が出るとおかげをとり外すぞ」
せっかくのおかげを取り外してしまう様な事があってはあいすまんことであります。昨日も慢心が大けがのもとという御神訓に基づいてでしたが、今日もその慢心が出るとおかげをとり外すと、私共が頂きたいと思う、いうならばお徳もおかげも頂けずじまいではせっかくの神様の働きを無にすることになりますから、それがおそまつになり御無礼になるのです。三宝様踏むな、三宝様踏むと眼が盲れると昔から言う。ま、三宝様とは私はいつも思うんですけれども、ま、大切なものという意味なんです。教典にはこく物の意ともあります。また仏教的に言うと仏法僧、これを仏教の宝とこういうわけですね。私は思いますのに、信心をさして頂いて一番大切なものは何かというと、私は教えを拝聴することだと思います。教えを頂くということだと思うですね。
ただ参ったり拝んだりというなら、大した、いうならば、ま、日本人の観念の中にそういうね、ただ一生懸命拝むことが、そのう信心のように思うております。そりゃもう朝顔を洗うたら表に出てからもうポンポンポンポン手を打ってからぐりっと一回りしてもうこれで日本中の神様仏様拝んだといったような気持ちの人があるような感じがね、日本人の宗教観念の中にあるんですね。この方の道はどこまでも話を聞いて助かる道とおっしゃるから助かる為には話を聞かなきゃ、その話というのは金光大神が天地金乃神様より直伝お受けになられたところのみ教え、宗教とはウ冠に示と書いて宗、教とは教えると、いうならば宇宙が示したことを伝えると、いうならば天地金乃神様が示して下さったことを教える。しかもそれをかみくだいて教祖金光大神が自分で実験実証されたことを話にしておられるのですからもうこれが一番大切なんです。
合楽でもそうです。金光大神のみ教えをなかなかわかりません。深く広く分からんのですけれども神様の知恵とても、叡智とでも申しましょうかね。私は神様からヒントを頂いたりお知らせを頂いたり、そして私自身もそれを実験実証して、これだ、と、これが間違いないのだ、と、ま、それを合楽理念に説くわけです、ね。ですから結局合楽理念を体得してそれを実験実証、しかもその合楽理念をみやすう行じられるように合楽理念は説くのですね。ですからとにかく何というても教えを拝聴するということ、ま、合楽ではと申しましょうかね、合楽では、ね、御理解を頂かないなんてことはもうそれこそ、買い物に行って買い物をせずに帰るも同じだと、ただお取次を頂いてお願いをしてうちで拝みよりますだけではいけんのだ。いうなら三宝様にもひってきするのが私、合楽の教えだと思います。
昨日は研修の時に皆が同じような発表をしましたが、昨日はテープに入ってなかったんですね。なんかちょっと機械がどうか故障しとったんでしょう。それで、そのまとめようにもまとめようがなかったです。矢野先生が一人速記をして、全部うつしとったから、ま、かろうじてそれを読んで、はあ、昨日の御理解はこうだったということになったわけですけれども、本当に昨日テープが故障してテープに入ってなかったということがおかげだったと皆が言ってます、ね。お話しを頂くことがいわば宝の三宝様だというふうに言われ思われておるのに昨日は二度とそれをくり返して頂くことが出来なかったことがおかげであった。本当におかげと思いますという発表がほとんどでした。意味が分かるでしょうか、ね。
日ごろいかにいうならば、本気で頂いていなかったかということです、ね。いうなら私が皆さんここで伝える、生のその教えというものをいうならば頂いたようであって、頂き終わった時にどういうような御理解だったかというとなかなかまとまることまとめることも出来なかった。それは、一生懸命ノートしておる人達が、ま、いくらかその残ってておるだけであって、ただこうやって一所懸命聞いておる。はあ、今日の御理解はここだったと一言でもよい、それが頭にはっきりと鮮明に残るようなおかげを頂かなければ今日の実験実証の材料はこのみ教えに基づいてといったようなものが生まれてこない、ね。というのは、だから結局分からして頂いたことは、お話しをこうやって頂いておりますけれども、ま、眠り半分であったということが分かったというのが有り難かったとこういうのです。
明日からまちっと本気で御理解を拝聴せにゃというのが皆さんの発表の中に、ほとんどそれでした。五十人もの修行生の先生方が毎朝こうやって修行さしてもろうてその一番大切な御祈念、そして御理解を頂くという時にそれが何も残っていなかったひとつには、いわゆる後からテープを何回でもきけばそれでまとめられるとおもうておるからでもありましょう、ね。けれども何というても生な御理解、それを本気で頂くことによってそれは意味が分からないかも分かりませんね。
北野の御信者さん方が、帰る道々親先生の御理解は本当難しいか、今日の御理解はみやすかったというふうな話をして帰られるということですが、なるほど、私どん話が私は平易に誰でも分かるようにと思うて、ま、いうならば、ま、それこそ筑後弁まるだしでこうやってお話をするです。分かりやすいようにと思うて、ね、私は漢文を使うたり英語を使うたりして話すなら難しいけれども、その気になって聞けばそげんむつかしいはないと思うけれども、やはり中には私の話がむつかいしいという人があるけれども、難しいして分からなかったけれども一生懸命頂いとったら、頭痛かったが治ったとか、するでしょうが。腹痛かったがお話聞きよったら治ったとか。だから御理解にはそういう功徳があるんですね。
植物人間の人にお話をしても分からんから、おかげの泉をパラパラパラパラこうやってくって、そのパラパラという音を聞かせていただけで植物人間が助かったというのがありますからね。だからみ教えというものにはそういう功徳がありますもんですから、眠り半分で頂いておっても、やはりおかげは頂きますけれども、ね、それをいよいよ実験実証して自分の血にも力にもしようとするためには分からにゃいけんのです、ね。そして今日のいうなら実験実証さしてもらう、いうならば手だてともしていくというところにです。私は御理解を頂く値打ちがあると思うです。信心が進まるひさ、ただ聞いた眠り半分で聞いておかげば頂いてね。だからここで慢心が出るとおかげをとりはずすぞとおっしゃるのは、やはり昨日にひき続いていうならば親先生のお話を軽うみておったということになるのではないでしょうか。眠り半分で聞きよるというならね。軽うみるということはもうすでに慢心なんです。私はいつか申しました。私の話は私の遺言と同じなんだ。ま、はあ、親先生が遺言しよんなさると思うて聞きなさいと。私はね、またとは頂かれない、また、事実またと頂けないですよね。合楽の御理解は。
二度とこの通りのお話をせろというてもできません。まだ今日だんな便利になって、このテープがございますから、それにお話をした通りの話が聞けますけれども、それは何というても私の生のものではない、ね。いうならば直筆的なものなんです。とう写ばんですったというような意味には同じ字で書いてあっても、値打ちが違うでしょうが。肉筆というならばでないものは、ですからどうでもやはり私の話を本気で頂くと。まあ朝のこの御理解が頂けないから、時間的に吉井の波多野さんとかね、ま、熱心な福岡の川上さんなかは、朝の御理解が頂けない。そこで、本気で頂かれる。
もうあくる日は必ずその実験実証のお届があります。こりゃ川上さんにおいてもしかり。皆さんでもそうです。そのくらいに、だから今まで頂いた時はもう、本当にもう生で頂ける人がうらやましいというふうにいわれます。みなさんの場合は生で頂いてられるわけですから、それを眠り半分で頂くということはやはり慢心です。慢心が出るとおかげを取り外すというおかげとはね、力にも血にもならないと思います。お徳だと思います。お徳を受けることは出来ないです。おかげは今言うように眠り半分でも、いや夢うつつでもおかげは頂くのです、ね。今日の御理解どげな御理解やったのと言うて分からなかってもです。おかげは頂くのです。お取り次ぎを頂いて。けれども自分の信心の血にすることはでけんです。ね、本当に言わば今日はどんな御理解を頂くだろうかと、ま、心をおどらして頂くようなかまえというかね、姿勢が大切。
金光様の、いや合楽で一番大切なものは何かというと、教えを頂くことだと思います。もうテープに入れて帰っとるけん帰ってゆっくり聞こうというとと今ここで皆さん聞かれるとは値打ちがだから違うわけです、ね。直筆というならば活版ずりぐらい違うです。その活版ずりをこうやって、ま、まとめならまとめるだけは出来ますけれども、自分の血肉にすることは出来ません。ね、昨日はそういう意味でね、ま、修行生の先生方が本当に今日はおかげ頂いた。日頃がいかにおろそかな頂き方をしておったかということが分かりましたということがおかげです、やっぱ。
今日からは皆さんがそれこそ、ま、一生懸命頂いておることであろうと思いますけれども、ね、それができるということが、血にも肉にもなる。いうならば、そのおかげを取り外さんですむということ、昨日はビリグイから若先生あてに手紙が参りました。今度、公子先生がお産のもようをくわしく若先生あてに手紙出してるんです。もう今度という今度は教祖のみ教えをそのままに実験実証して産婆にもかからん、医者にもかからなかったというです。自分方の二階で安産のおかげを頂いた。もうそれも隣知らずというよりももう自分すら知らんくらいだった、ね。寝とったら陣痛のお夢を頂きよった。お夢ん中で、そして産まれとったげな。それこそ隣知らずどころか自分も産みの苦しみなんか全然感じずに、ま、おかげを頂いたと言うております。
なかなか難しい。言うならばみ教えですからね。度胸のいる。言うならばみ教えですからね。なかなか出来ません。腹帯をせんというだけでもいうならばむつかしいくらいですからね。医者にも産婆にもかからずにおかげを頂いた。教祖がそうおっしゃっとられるのだから、そしてもうあくる朝から御神飯たきを致しました、と書いてあります。すばらしいでしょう。教祖のみ教えを実践実証するとそういうおかげになってくるんです。その実験実証を本当に生に頂きこんどかな出けんです。いや、頂きこんどくだけでなくそれが力にも徳にもなっとかなければいよいよの実験が出来んです。
ま、教祖様はこう教えておられるけれども、ま、そこは私共が風夫ですけんでちゅうごたるふうでその本気なことは実験できない、ね。今日は皆さんにいうならば合楽では、合楽のみ教えはここにある三宝様踏むなとおっしゃる。いうならばみ教えを踏んずけんするなと、踏んずけにすることが慢心だと、いやあ、踏んずけにはしませんと言うておっても、なら実際、聞き終わった時に何も残ってなかったじゃないか。してみると一生懸命頂きよったでたるばってん、眠り半分じゃろということになる。踏んずけにしておるわけです。それではおかげを取りはずすとおっしゃる、ね。ただ願いごとが成就するというおかげは頂きましょうけれども、徳にも力にもならないということでございます。
どうぞ。